女工哀歌1925

ご存知の方がほとんどかと思いますが、この建物はもともと銀行でした。 
1925年5月25日に起こった北但大震災の後に建てられた復興建築と呼ばれる建物です。
今年は令和元年ですが94年前の1925年は大正14年。当時の世界はどんな様子だったのでしょう。
イタリアではムッソリーニが独裁宣言をし、エジプトではツタンカーメン王の墓が発見され、ドイツではヒトラーが「我が闘争」の第1巻を公表。
日本ではようやく25歳以上の男子に選挙権が認められました。(ちなみに女性に選挙権が与えられたのはなんとその20年後)

1925年、『女工哀史』という一冊の本が出版されました。
作者の細井和喜蔵は豊岡からほど近くの京丹後与謝野町の貧しい家に生まれ育ち、幼い頃から祖母に育てられました。京都で遊女になっていた母親は投身自殺し、親代わりであった祖母は厳しく、子供といえど働き手として勉強よりも仕事を優先させて育てましたが、祖母も和喜蔵13歳の時に亡くなります。肉親のない和喜蔵は学校をやめて、丹後ちりめんの機屋の小僧として働き始めました。働くと言っても十分な賃金を得られない丁稚奉公で、耐え忍びながら思春期を過ごします。
この頃からちりめんの織機も機械化が進み、イギリスからの自動織機が和喜蔵の働く機屋にも入れられ、もともと勉強が好きな和喜蔵は機械に興味を持ち、もっと学びたいと思うようになります。しかし機屋の小僧のままではそれは叶わないとある時思い立ち、ひとり大阪へ旅立ちます。
和喜蔵は大規模な紡績工場を転々とし、虐げれた女工、男工の生活をつぶさに見、資本主義の名の下に機械の奴隷となって1日何十時間も低賃金で働かされる現実に疑問も持ちます。労働組合運動に参加し、女工の証言や資料を集め、現状を変える訴えとして『女工哀史』を出版しました。しかし和喜蔵は出版から約1ヶ月後の1925年8月18日、28歳の若さで病のためこの世を去ります。

1930年には日本の綿織物輸出量はイギリスを抜いて世界第1位となりましたが、その陰には貧しい農村部から連れてこられた10代そこそこの女工たちが、衛生面も栄養面も不十分な工場の寄宿舎に住み込み、外出や恋愛も制限され、何年も里への送金のためと働き、肺を病んで若くして亡くなる人も多くありました。この国の近代化を支えるための外貨を稼いだのは、女工たちであると言っても大げさではないと思います。

人間を交換可能な部品のような労働力としてしか見ていない、雇う側と雇われる側のパワーバランスの不均衡は、現在の社会においても散見されます。『女工哀史』において1925年に告発されていることは、残念ながらいまだ古びていないのです。
                                                           増田 美佳

日時|2019年7月20日(土)19:25〜
会場|オーベルジュ豊岡 1925
出演|増田 美佳(ダンス)、中嶋 由紀(ピアノ)、干場 康行(打楽器等)
曲目|即興 〜かなしみのしみ
   ジーグ/ J.B.Lully(1632-1687)
   ソナチネ 第 3 番 第 1 楽章 / 奥村 一(1925-1994)
   ソナタ 第 3 番 第 3 楽章 / A.Scriabin(1872-1915)
   「鏡」より 悲しき鳥たち Oiseaux tristes / J.M.Ravel(1875-1937)
   ソナチネ 第 3 楽章 / 山田一雄(1912-1991)
   子守歌/平吉毅州(1936-1998) いけ しかばね
   「女工小唄」より 生る屍の譜 / 作者不詳
   フランス組曲 第 5 番より サラバンド/ J.S.Bach(1685-1750)
   Let us wander(GAVOTTA)/ H.Purcell(1659-1695)
   即興 〜かなしみのしみ 

構成|増田 美佳
映像・監修|山田 晋平
制作|寺島 千絵、松宮 未来子
コーディネート|一般社団法人ワンノート豊岡
主催|オーベルジュ豊岡 1925
後援|コトブキ荘、豊岡市、豊岡まち塾
企画|toyooka macchiato 実行委員会

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